八ヶ岳の夜に、ひとり想う

車の音も、電車の音も、テレビの音もしない、
八ヶ岳の夜おそく。

猛暑が続く愛知県の仕事場から、
3時間かけて深夜に車を飛ばして帰ってきた私は、
見慣れているはずの我が家の庭先で、
いつもとは少し違う、
幻想的な光景を眺めていました。

満月が、澄んだ空気の向こうに、
くっきりと大きく姿を現しています。

黒々とした、広大で深遠な宇宙の空間の中で、
はるか遠くにある無数の星たちに見守られながら、
月と地球だけが、
寄り添いながらぽっかりと浮かんでいるのが感じられます。

その地球側の一点に、
いま、私が立っています。

私の周りでは、
月の青い光が、木々や草花にほのかにあたり、
ぼんやりとそれらの輪郭を浮かび上がらせています。
葉の上のところどころが、
虫の甲羅か、水滴かわからないけど、
キラリ、キラリと輝いています。

前方の草むらの中から一匹。
ささやかな虫の鳴き声が聞こえてきます。
右手のやや離れたところからも一匹。
お互いが会話するように鳴いています。
その音の感覚は、
ふだん目で見ているよりも、
リアルに立体空間を感じさせてくれます。

遠くのほうから、
風が小枝や葉を揺らしている音が聞こえてきます。
その風は、だんだん近づいてきて、
目の前の草の上を駆け抜け、
庭の反対側に抜けていきます。
行ってしまったなと思った瞬間、
思わぬところから風が起こり、
その風は地表近くから木々の枝を揺らしながら上昇していき、
天空へと駆け上がっていきました。

そよ風は、
単に右から左へと流れているのではなく、
枝分かれしたり、また合流したり、
駆け抜けていくかと思えば、
小枝や草花と戯れていくなど、
常に様々に変化しながら流れていきます。

宇宙の深遠な広がり、
月の光、
星の輝き、
梢できらめく光、
虫の鳴き声、
葉の擦れる音、
頬や腕に感じる空気、
ダイナミックに流れる風の姿

これらを同時に感じていると、
宇宙全体が決して止まることなく、
流れ続けていることが実感できます。

宇宙を構成している一つ一つは、
他の存在があるからこそ、自分も存在することができ、
それぞれに自分の“役”を演じながら、
自分の存在を楽しんでいるかのようです。

それができるのは、
太古の教えのように、
全てのものの根源が、実は一つであり、
お互いに共通の繋がりを維持しながら分化していき、
このような多彩な世界を創り上げてきたからに違いありません。

もしかしたら、人間にも同じことが当てはまるかもしれません。

もともと一つだった魂が、
自分の存在を知るために、
魂と肉体とを分化させて、
いろいろな考えや人生体験をもった人々を創り上げ、
それらの人々が出会い、影響しあうことで、
分化した魂は、お互いに自分の存在を確認し、
自分の“役”を楽しんでいるのでしょう。

“今生で出会う全ての人は、
自分にとって何らかの意味と役割を持っている”
とよく言われます。
根っこで皆が繋がっていて、
皆が自分の、いわば分身であるのならば、
それは、自分の右手と左手の手のひらを、
合わせようと思えば、簡単に合わせられるのと同じように、
それは至極、可能なことと考えられます。

でも、
通勤電車で隣に座っている人、
職場の上司、
道ですれ違った人、
ニュースで出てきた人、
自分を傷つける人・・・。
皆、自分と同じ根源を持ち、
自分の分身と考えても良いのでしょうか?
失礼ながら、あの人が自分の分身なんて・・・
とあまり考えたくない場合もあるでしょう。

しかし、それでも、
全ては根っこで一つに繋がっており、
私たちはその分身で、お互いに必要な“役”を演じている、
と考えたほうが、
そうでないよりも、いろいろな点で合点がいくのです。

自分はなぜ存在するのか、という究極の問いに、
私は、この今生で答えを見つけられるのでしょうか。

いま、かすかに思うのは、
どんな生き方であっても、
死なずに生かされているということは、
その生には、必ず他者に必要な“役”があるということ。
ただ、その“役”は今に限ることではなく、
何十年先、何世代先の人たちのための“役”かもしれません。
だから、あまり自分の“役”はなんだろうかと固執することは賢明ではなさそうです。

むしろ、自分の本心と良心に従って、
仕事や人生を“楽しむ”ことが大事なのではないでしょうか。
それがきっと、自分の“役”に繋がっているのだと思います。

ということは、逆に考えると、
“楽しむ”ために、自分は存在するとも言えます。

そういえば、その昔、
妻が、何のために生きているのかという私の問いに対して、
「皆も私も“幸せ”になるため」、
と、さらりと答えたのを、いま思い出しました。

幸せであるということは、その瞬間を楽しんでいること、
楽しんでいるということは、幸せであるということ。
なんだか、同じようなところに行きつきました。

どうやら妻のほうが、ずっと以前から、
その基本的で、大事なことに気づいていたようです。

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