八ヶ岳での「幸せの経済学」の上映会のお申込みですが、各方面に拡散してくださったシャロムヒュッテの臼井さんのお蔭で(あらためて、ありがとうございます)順調です。地元はもちろん、東京、埼玉、長野方面からわざわざいらして下さる方もあり、心より感謝申し上げます。
上映に先だって、配給会社から送られてきた試写版を見ました。全体としてよくできているとは思いますが、少し心にひっかかるところもありました。
このブログを通してお申し込みをされた方もおられますので、私の責任上、その点について、前もってお伝えしておこうと思います。
監督のヘレナ・ノーバーグ・ホッジは研究者というよりは活動家です。従って、彼女は世間にインパクトを与えて社会を「変えて」いくことが仕事です。
「変えて」行くためには、今あるものを否定し対抗していかなければなりません。今回の映画もその路線上にあります。こういったところは、ヘレナとともにシューマッハカレッジの設立に関与した非暴力を主義とするサティシュ・クマールとは違うところです。
この映画の中でヘレナは、現代社会に蔓延する多くの問題を、「グローバリゼーション」という言葉に包み込み、その対抗概念として「ローカリゼーション」を謳っています。つまり、「グローバリゼーション」と「ローカリゼーション」という、二項対立の構図で世間に訴えようとしているのです。
この手法は、態度をはっきりさせる欧米人にはあっていますが、欧米人に比べて全体を考えながら判断する日本人には向かないかもしれません。かえって、折角、幸せな経済に関して関心の高かった人も、グローバリゼーションを切り捨て、ローカリゼーションへ向かう一辺倒な考え方に違和感を感じる人もあるかもしれません。(むしろ、その方が正常な感覚であろうと思います。) また、全体図をあまり理解せずに盲目的にローカリゼーションに走ってしまう人たちを生んでしまう可能性もあるでしょう。
幸せな経済・社会を目指すにあたって、その着地点はグローバリゼーションとローカリゼーションの中間にあります。バランス的には大きくローカルに寄ったところではありますが、グローバルな関係は決して消えませんし、グローバルな流通は、現在のものと様相は大きく変わるものの、そこにはそこの役割を果たしてくれなければなりません。
実は「スモール・イズ・ビューティフル」の著書で世界的に知られるE.F.シューマッハも同じような誤解を受けています。この著書の題名は実はシューマッハがつけたものではなく出版社の担当者がつけたものです。この題名は広報的には大成功でした。しかし、シューマッハ自身は小さいことは良いことだなどとは決して述べていません。彼が主張していたのは、「全てのモノ、コトには、適正な規模がある」ということです。
それは、グローバルな規模を必要とするモノやコトもありますし、逆に、日常の暮らしに密接なものは、ごくごく身近なローカルが最適規模になるということです。つまり、グローバルとローカルは必要に応じて共存するわけです。
ヘレナも一応、映画の中で一瞬ではありますが、そのあたりをコメントしていますが、実際に映画を一回見ただけでは、グローバリゼーションとローカリゼーションの二項対立の印象の方が強すぎて、誤解を招く可能性が高いと思います。従って、この映画を見て、ローカリゼーションだけが良いことだといった偏った考え方に陥らないように、気づいている人が指摘してあげる必要があろうと思います。
もう一つ気になったことは、幸せの経済・社会を構築していくうえで基盤となる考え方である、自然界が成り立つうえで基礎となっている原理について一切触れていない事です。地球生命系では、私たちの細胞から大自然の営みまで、あらゆるところで協調的な相互関係が樹立され、その創発によって、新たな命を生み、生命を維持継続しているのです。私たちが地球生命系と共生する本当にエコロジカルな社会を作るためには、人類もその原理に沿いながら暮らしていくことが必須です。へレナのいうローカルな暮らしも、最終的にはその基盤がないと成り立たないのです。
サティシュ・クマールやジェームズ・ラブロックとともにシューマッハカレッジを作ったヘレナも、このことは十分に知っているはずです。映画にインタビューされて登場する経済学者デビッド・コーテンは、こういった生命システムの研究の第一人者でシューマッハカレッジの教授でもあったブライアン・グッドウィンの妹弟子で、遺伝子組み換え作物の反対論者で世界的に知られるメイワンホー博士とたまたま飛行機で隣の席に座りあわせ、彼女から協調を基盤にした地球生命システムの原理の話を聞き、エコロジカルな新たな社会観に開眼した人です。
ですから、そういった考え方の基盤の説明も是非、映画の中に入れて欲しかったと思います。そうでないと、ローカリゼーションの話も、単に頭で考えた理屈でしかなく、根無し草のように流されてしまうからです。しっかりとした社会づくりには、心の底から、直感的にも納得のいく考え方の基盤が必要なのです。
私自身も、いまものすごく反省しています。
シューマッハカレッジから帰って12年を迎えようとしています。この文章「共生社会への扉」は、留学から帰ってから半年後に書いた古いものですが、映画の内容は、この文章の中から「ダイアローグ」と先の地球生命系の話を引いた内容の範囲を超えません。つまり、この10年余りの間、社会は何も変化しておらず、相変わらず同じ話が繰り返されているだけなのです。その間、私ときたら何も貢献していないし、むしろ諦めて、引き籠っていたと言ったほうが良いかもしれません。
でも、今回の震災で多少考え方が変わりました。いつ突然、自分も死に直面するかもしれませんし、このままでは、いつまでたっても今の社会のままです。やはり、自分がやらなければならない役割を、生きているうちに、しっかり果たさなければならないと考え直しているところです。
22日に上映会&ダイアローグに来られる方、どうぞ宜しくお願いいたします。
上映に先だって、配給会社から送られてきた試写版を見ました。全体としてよくできているとは思いますが、少し心にひっかかるところもありました。
このブログを通してお申し込みをされた方もおられますので、私の責任上、その点について、前もってお伝えしておこうと思います。
監督のヘレナ・ノーバーグ・ホッジは研究者というよりは活動家です。従って、彼女は世間にインパクトを与えて社会を「変えて」いくことが仕事です。
「変えて」行くためには、今あるものを否定し対抗していかなければなりません。今回の映画もその路線上にあります。こういったところは、ヘレナとともにシューマッハカレッジの設立に関与した非暴力を主義とするサティシュ・クマールとは違うところです。
この映画の中でヘレナは、現代社会に蔓延する多くの問題を、「グローバリゼーション」という言葉に包み込み、その対抗概念として「ローカリゼーション」を謳っています。つまり、「グローバリゼーション」と「ローカリゼーション」という、二項対立の構図で世間に訴えようとしているのです。
この手法は、態度をはっきりさせる欧米人にはあっていますが、欧米人に比べて全体を考えながら判断する日本人には向かないかもしれません。かえって、折角、幸せな経済に関して関心の高かった人も、グローバリゼーションを切り捨て、ローカリゼーションへ向かう一辺倒な考え方に違和感を感じる人もあるかもしれません。(むしろ、その方が正常な感覚であろうと思います。) また、全体図をあまり理解せずに盲目的にローカリゼーションに走ってしまう人たちを生んでしまう可能性もあるでしょう。
幸せな経済・社会を目指すにあたって、その着地点はグローバリゼーションとローカリゼーションの中間にあります。バランス的には大きくローカルに寄ったところではありますが、グローバルな関係は決して消えませんし、グローバルな流通は、現在のものと様相は大きく変わるものの、そこにはそこの役割を果たしてくれなければなりません。
実は「スモール・イズ・ビューティフル」の著書で世界的に知られるE.F.シューマッハも同じような誤解を受けています。この著書の題名は実はシューマッハがつけたものではなく出版社の担当者がつけたものです。この題名は広報的には大成功でした。しかし、シューマッハ自身は小さいことは良いことだなどとは決して述べていません。彼が主張していたのは、「全てのモノ、コトには、適正な規模がある」ということです。
それは、グローバルな規模を必要とするモノやコトもありますし、逆に、日常の暮らしに密接なものは、ごくごく身近なローカルが最適規模になるということです。つまり、グローバルとローカルは必要に応じて共存するわけです。
ヘレナも一応、映画の中で一瞬ではありますが、そのあたりをコメントしていますが、実際に映画を一回見ただけでは、グローバリゼーションとローカリゼーションの二項対立の印象の方が強すぎて、誤解を招く可能性が高いと思います。従って、この映画を見て、ローカリゼーションだけが良いことだといった偏った考え方に陥らないように、気づいている人が指摘してあげる必要があろうと思います。
もう一つ気になったことは、幸せの経済・社会を構築していくうえで基盤となる考え方である、自然界が成り立つうえで基礎となっている原理について一切触れていない事です。地球生命系では、私たちの細胞から大自然の営みまで、あらゆるところで協調的な相互関係が樹立され、その創発によって、新たな命を生み、生命を維持継続しているのです。私たちが地球生命系と共生する本当にエコロジカルな社会を作るためには、人類もその原理に沿いながら暮らしていくことが必須です。へレナのいうローカルな暮らしも、最終的にはその基盤がないと成り立たないのです。
サティシュ・クマールやジェームズ・ラブロックとともにシューマッハカレッジを作ったヘレナも、このことは十分に知っているはずです。映画にインタビューされて登場する経済学者デビッド・コーテンは、こういった生命システムの研究の第一人者でシューマッハカレッジの教授でもあったブライアン・グッドウィンの妹弟子で、遺伝子組み換え作物の反対論者で世界的に知られるメイワンホー博士とたまたま飛行機で隣の席に座りあわせ、彼女から協調を基盤にした地球生命システムの原理の話を聞き、エコロジカルな新たな社会観に開眼した人です。
ですから、そういった考え方の基盤の説明も是非、映画の中に入れて欲しかったと思います。そうでないと、ローカリゼーションの話も、単に頭で考えた理屈でしかなく、根無し草のように流されてしまうからです。しっかりとした社会づくりには、心の底から、直感的にも納得のいく考え方の基盤が必要なのです。
私自身も、いまものすごく反省しています。
シューマッハカレッジから帰って12年を迎えようとしています。この文章「共生社会への扉」は、留学から帰ってから半年後に書いた古いものですが、映画の内容は、この文章の中から「ダイアローグ」と先の地球生命系の話を引いた内容の範囲を超えません。つまり、この10年余りの間、社会は何も変化しておらず、相変わらず同じ話が繰り返されているだけなのです。その間、私ときたら何も貢献していないし、むしろ諦めて、引き籠っていたと言ったほうが良いかもしれません。
でも、今回の震災で多少考え方が変わりました。いつ突然、自分も死に直面するかもしれませんし、このままでは、いつまでたっても今の社会のままです。やはり、自分がやらなければならない役割を、生きているうちに、しっかり果たさなければならないと考え直しているところです。
22日に上映会&ダイアローグに来られる方、どうぞ宜しくお願いいたします。
0コメント