競争の意味が変化する


昨晩のNHKスペシャルを見ていたら、
「市場原理主義」という言葉が使われ、
あたかも竹中平蔵氏が、
「市場原理主義者」であるかのような、
演出がなされていました。

個人的には、かねてから、
金子勝氏の論調に好感をもっていたことから、
金子氏と竹中氏の議論は、
興味を持って見ていました。

しかし、正直、「市場原理主義」という、
多少、蔑視的な意味を持たせた言葉を、
NHKが使っていたことは遺憾でした。
かねてはNHKも市場重視の考え方を、
あたかも正義のように報道していたのに、
その変わりようには、少々あきれました。

市場主義または競争主義というと、
そのおおもとはアダムスミスといわれていますが、
アダムスミスは、
今のグローバル経済のような、
大競争のことを言っていたわけではありません。

アダムスミスの「神の見えざる手」を、
後世の人々が拡大解釈し、
さらにシカゴ学派の人々が、
金融においてその考えを発展させ、
結局は今回の破綻へと突き進んでいきました。

アダムスミスの世界は、
基本的には市場のプレーヤーが、
お互いに見えており、
参加者全員が市場の情報を共有でき、
公平さと自由とがある市場です。
つまりプレーヤーは完全な合理性をもっています。

しかしながら、
現実は違います。
先の理想的な市場の条件を、
満たしている市場なんか存在しません。

特に、プレーヤーは、
限られた情報の中で判断せざるを得ない、
”限定合理性”である存在なのです。

限定合理性という言葉は、
かつてノーベル賞をとった、
ハーバート・サイモンの言葉ですが、
市場といものを理解するうえで重要な、
もっと一般的に認識されるべき、
考え方だと思います。

現在のほとんどの市場は、
限定合理性の世界でありながら、
完全な合理性である「神の見えざる手」を、
前提にしているという、
大きな矛盾を含んでいます。

実需のグローバル経済に限定するならば、
今の大競争を続けることは、
この大きな矛盾を抱えたまま、
さらに競争を進めていくことを意味します。

多くの人が気づいているように、
この矛盾は、
ますます、“一部の”人の懐を豊かにし、
ますます、大多数の人の生活を不安定にします。

さて、その解決にはどのような道があるのでしょうか?

規制や保護主義に陥らないように、
この矛盾を解消するには、

「生活の基本となるものは、
ローカルなマーケットに」
収斂させていき、

擬似的ではありますが、
全プレーヤーが完全合理性に近い世界に、
近づけていくのが、
市民の生活の安定性と、
地域共同体としての、
セーフティーネット的な側面も強くなることから、
とても有効な手段だと考えます。

それぞれの商品あるいは産業ごとに、
「ローカル」の規模は異なってきます。

食べ物は基本的に近隣地域でまかないます。
意外と、住宅のようなものも、
地域の資源でできるものです。

自動車や家電は
ローカル=国家規模のものでしょう。

大型飛行機や鉄鋼といった、
重厚長大産業の場合は、
ローカル=グローバル、
の規模となるものも、
当然あります。

しかし、生活の基本となるものが、
市場参加者がお互いにわかり、
十分な情報が行き渡る規模で取引される。

そういった競合状態であれば、
今に比べて、
マーケットは極めて安定でありながら、
イノベーションに必要な、
適度な競争が行われます。

むしろ、競争というよりは、
切磋琢磨という言葉が、
相応しくなるでしょう。



さて、番組には、
かつて一緒に仕事をしていた、
勝間和代さんも出ていました。

当時、一緒にいたグループが解散となり、
その後、彼女はビジネスの世界を突き進み、
私は、オルターナティブな世界に気づき、
そちらの道を進みました。

当時、外資系企業で海千山千の人々が多かった中で、
人物としても、仕事の内容的にも、
本当に信頼できる、
数少ないうちの一人でした。
類まれな努力家ですし、
習得と課題処理能力は優れたものがあります。
でも、もっと本当の幸福について、
もっと大切なことがあることについて、
早く気づいてほしい。

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