“ディベート”が古語になるとき



先日の日曜日の朝、テレビ朝日で竹中平蔵氏と金子勝氏との討論がありました。
この番組は、司会者とプロデューサーの偏向が強いことから、普段はあまり見ないのですが、両氏の討論は、お正月のNHKの番組(1月2日の記事参照)のこともあり、ちょっと見てしまいました。

金子勝氏は、かつて市場競争論があたかも正義のように皆が言っていた時代に、果敢に、その問題点を指摘し、セーフティーネットの大事さを強調してこられたことから、結構、好きな学者の一人です。

ただし、昨今の番組を見ていると、竹中氏が行っていた市場競争と規制緩和の非難に終始している感が強く、私は、ちょっと一歩引いてしまいます。竹中氏も金子氏も、人生の中でお互いに向き合う機会はとても限られています。その機会を、まさに一期一会で、真摯に向き合い、意味のある時間にされると良いのにと思います。

人と対峙しなければならないときほど、お互いの心が響き合う対話を心がけなければなりません。

その時に重要なのは、自分の主張をするよりも、相手の主張を粘り強く聞くことです。

分からない点があれば、どんどん質問していくことです。
相手がどうして、そのような主張に至ったかを理解しなければ、
お互いにより良い答えを導くことはできないはずです。
現代人の多くは、このステップを明らかに飛ばしてしまい、
相手を否定し、自分を肯定することに力を注いでいます。

相手を否定することなく、自分をあくまで肯定することもなく、
相手を理解することに、まずは全力を傾けること。
聞かれている本人も、質問に答えているうちに、
自分の主張が何かおかしいと、間違いに気づくことがあります。
一方、聞いているほうも、それまで自分の理解になかったことに気づき、
自分の主張も変わっていきます。
このプロセスの連続が、より良い答えを導いてくる導火線となります。
私がしつこく繰り返しているダイアローグ(真の対話)がこれです。

これまで、よく討論という言葉が使われてきました。
この英語の「ディベート」の語源は「相手を打ち負かす」というところから来ています。
一方、「ダイアローグ」は、ダイアは「通じる」、ロゴスは「真理」を意味します。
言葉の中に、深遠な意味が含まれています。

そろそろ、私たちの社会も、討論、ディベート、議論などと言う言葉は卒業したいものです。
次の時代には、ディベートと言う言葉は明らかに古語となるでしょう。
そして、お互いが協力し合って、本当に大事なことは何なのかを探す旅とも言える、対話=ダイアローグが、私たちの社会の基本に組み込まれるはずです。

対話、ダイアローグについてご興味ある方は、こちらもご参照ください。
シューマッハカレッジ留学記(第12話中ほど)
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