広島、長崎、終戦、そして、憲法第9条

私が物心ついたときには、
すでに終戦から二十数年がたっていましたが、
私が生まれたその町は、海軍工廠のあった場所で、
B29による猛烈な爆撃にさらされたところでした。
防空壕や高射砲を据え付けた跡など、
第二次世界大戦の痕跡が、
まだ町や付近の野山に数多く残っていました。
また、広島が近かったことから、
原爆のときの話や、その後に、
大やけどした人々が次々に列車で運ばれてくる惨状など、
戦争体験の話が、
ごく日常の会話の中にもありました。
町は、まだ第二次世界大戦の延長線上にあったのです。

今日、何故このテーマを書こうかと思ったのは、
先週の金曜日、NHKの東海地域版で、
ガダルカナルの激闘から、
生き残って帰ってこられた方々が、
長年の沈黙を破って、
その惨状を語られ始めたという番組を見たからです。

その中に登場された橋本氏(91歳)は、
士官学校を卒業後、
若くして、その戦線の部隊長として、
百数十名の部下を率いて、
ガダルカナルに渡られました。

後に続くはずだった補給船団が、
米軍の攻撃を受けて沈没したために、
食料も、武器も、弾薬も、交代の兵隊も来ず、
暑さと湿気のジャングルで、
飢えと米軍の攻撃にさらされ、
部下の兵士は、目の前で次々に死んでいきました。
司令部から撤退命令が出たときには、
まさに命からがらと言う状態だったそうです。
退却をするにも、
疲労と衰弱は極度となり、
倒れている木をまたぐことさえ難しいくらいになりました。
橋本さんは、その状況を鑑みて、
今生き残っている部下の命を失うことなく、
無事に日本に送り届けることを第一に考え、
皆が少しでも身軽になって歩けるようにと、
兵士としては一番大切にしなくてはならなかった、
皇室の紋の入った銃をも、
その場においていくように命じました。
軍人としての銃や戦いの重要さより、
人としての命を優先したのです。

そして部隊は、幸運にも、
撤退用の船が来ている港につくことができました。
暗闇の中、
体力を消耗しきって、
船の階段さえ上がれなくなった部下を、
橋本さんは最後の力を振り絞って、
船上に押し上げたのだそうです。

最後の部下が乗船したのを見届けたあと、
橋本さんはただ一人、船には乗らず、
桟橋の下に腰をかけたそうです。
多くの大切な命を失わせてしまった申し訳なさから、
自分は、ガダルカナルの地に残る決心をしていたのです。

しかし、それに気づいた船員らが、
5人がかりで橋本さんを船に乗せて、
日本につれて帰ってきてくれたのだそうです・・・。

「何があっても、戦争だけはしてはいけない。」
多くの戦争体験者の共通の言葉です。

その言葉と同じ憲法第9条の、
非暴力の考え方は、
人間としての根源的な姿でもあり、
自然界の摂理に従うものです。
第九条を改憲することは、
真の人間であることの一部を、
置き去りにしていくことに他なりません。

憲法第9条を守ることは、
世界に対して、
真の人間の姿を体現する、
日本の大事な役目であり、
それは日本人にしかできないと私は思います。

橋本氏が見せてくれたような崇高な精神とともに、
戦わずして解決できるだけの智恵を育むこと。
第二次世界大戦を本当の意味で乗り越えるためにも、
私たちはこれを実現しなくてはなりません。

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