日本陸軍の開戦前夜

母は、私が小さかった頃、
日本陸軍の中枢にいた祖父や、
陸軍の幹部養成学校に通っていた父のことは、
家の外では絶対に話してはいけないと、
厳しく注意しました。
まだ、戦争の悲惨な状況を体験した人が多く、
戦争を引き起こした元凶と言われる日本陸軍に、
非常に厳しい目を向けられていた当時、
私が非難を背負うことの無い様にと、
思ってのことだったと思います。

しかし、戦後64年をすぎ、
戦争の記憶が急速に風化しつつある今、
戦争の悲惨さとともに、
日本陸軍が、どのようにして戦争に突き進んでいってしまったかを、
私たちは、今一度、
しっかり、認識しておく必要があります。
その一つの記憶のために、
今日は少しばかり、当時のことを、
祖父の体験を通して書いておきたいと思います。

祖父は、天皇家を護衛する近衛師団にいた父親を継ぎ、
京都一中、士官学校を経て、
陸軍に入り、陸軍大学を卒業しました。
東條英機氏の2年後輩にあたります。
その後、関東軍、全国の旅団や師団で、
役職を務め、師団長となりました。
その間、陸軍の幹部候補生として、
海外を何度も視察して歩き、
欧米の列強の軍事力や策略も、
目の当たりにしてきました。

第二次世界大戦に突入する前、
政府にも、陸軍内にも、
戦争をできるだけ避けるという考え方の人は、
実は少なくありませんでした。
欧米列強の力を知っていた祖父もそうです。
東條内閣の前の近衛内閣もそう。
天皇陛下もそうでした。
戦争阻止派は、むしろ多数派だったかもしれません。

しかし、アメリカが次々に繰り出す挑発を前に、
東條英機氏らの一派や青年将校たちは、
開戦を主張するようになりました。
まだ2・26事件の記憶が鮮明なこともあり、
その状況を統括できるのは、
東條英機氏しかいないということになり、
東條内閣が作られることになりました。

昭和16年10月。
東條内閣が立ち上がる数日前のこと、
反開戦派であり、反東條派だった祖父は、
突然、師団長の任を解かれ、
参謀本部附きという、
何の肩書きのない閑職へと追いやられました。

そして同11月。
東條内閣のもとへ、ハルノートという、
アメリカから日本への最後通告とも言われる、
日本に極めて不利な内容の書状が届きます。
そして、その挑発にのってしまった東條内閣は、
開戦以外に打開策はないと判断し、
12月に開戦へと突き進みました。

開戦が迫った数日前のこと。
祖父は、まだ定年まで10年もあるにもかかわらず、
陸軍を強制的に退役させられました。
東條内閣は、
自分の意見に反対する陸軍幹部を処分したのです。
先の小泉内閣が、郵政改革反対派を切ったのと同じです。

また、東條内閣は、
国民に対しては憲兵の力を増し、
さらに、メディアを完全に管理下において、
日本全国の思想的統制を行いました。

つまり、第二次世界大戦は、
一部の人たちの強権的な手法によって、
強引に推し進められたわけです。

しかし、その判断の根本的な誤りのために、
日本は自滅とも言える坂道を、
転がるように転落していきました。
もうどうしようもならない状況に至って、
東條内閣は瓦解しました。

その後、祖父は再び師団長に復帰しました。
しかし、時はもう遅すぎました。

祖父は、終戦後、
大人数を擁する師団の後処理に、
相当な時間を費やしました。
職を失い、生活に困る部下に、
自分の財産を分け与えたそうです。
そしてその翌年、混乱と心労の中、
祖父はなくなりました。
その時、家には葬式の費用さえ残っていませんでした。
幸い、祖父の生前のことをよく知っておられた、
地元の禅宗のお寺の住職が、
我が家の代わりに、
盛大な葬式を取り仕切って下さいました。
我が家からはそのお礼として、
祖父が生前に大事にしていた硯が、
お寺に届けられました。
今でもその硯は、そのお寺にあるそうです。

私は、終戦の時期、開戦の時期になると、
どうしても気持ちが落ち着きません。
何故、祖父をはじめ、
日本陸軍の反開戦派は、
東條英機氏の暴走を止められなかったのでしょうか。

その答えの一つは、
「劇場」にあると思います。
アメリカは日本の資源の枯渇を誘い、
ハルノートをはじめ、
劇場を非常に上手く演出しました。
それに、日本は踊らされてしまったのです。
その劇に酔った人たちの思い込みはすざまじく、
周囲にも止めることができなかったのです。

まるで、小泉劇場に、
多くの国民が、あまり深く考えることなく、
酔ったのと一緒です。

これは、いつの時代にもありうることであり、
とても危険なことです。
では一体、どうしたら、
それを避けることができるのでしょうか?

このことについては、
また日を改めたいと思います。

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