アーミッシュに憧れて・・・

パーティーというと、
部屋を華やかに飾り、
着る洋服も、普段とは違った、
ちょっと華やかなものを着なければと思うことでしょう。
女性なら、アクセサリーや髪形、
持って行くバックや靴まで気を配ることが一般的です。

この、誰もが当たり前のように思っていることが、
実は子供の頃から、
両親や周囲の人々、
絵本やテレビを通じて、
しっかりと刷り込まれた、
一種の思い込みであったことに気づかせてくれたのは、
ある一冊のアーミッシュの本でした。

ご存知のように、
アーミッシュの人々は、
常に質素で、華美な装飾や演出は行わず、
稀に飾りのようなものがあったとしても、
そこには、何か大事な意味があり、
まさに、必要最小限でありながら、
それで十分な物と装飾の中で暮らしています。

そのような環境の中で育った子供達は、
着飾ることや、華美な装飾をすることへの関心は低く、
そのかわり、
自然に活かされながら生活をしていることを喜び、
互いに助け合いながら生きることを当たり前とし、
人のために役立つことに喜びを感じながら生きています。

そういった世界から私たちの社会を見るならば、
そこには至る所に、物、意味の無い装飾や演出が溢れ、
それは、まるで洪水のように、
私たちを取り囲んでいるのがはっきり分かる事と思います。
私たちの多くは、いつしか生きる意味を忘れ、
自然に活かされていることに鈍感となり、
互いに助け合って生きていることへの感謝も減り、
まるで、物質世界に麻痺したような存在となっています。
さらに輪をかけるように、
酔っ払いが、自分は酔っていないと言い張るように、
自分では麻痺していないと思っているから、
なおいけません。

でもこれは、個人だけに帰属する問題ではありません。
先にも書いたように、
子供も、最初は純粋だったのに、
周囲の環境に染まっていくことで、
麻痺は、親から子へと受け継がれていきます。

社会全体も、
最初はそれほど麻痺していなかったはずですが、
個人の価値観と物質社会との相互影響が、
お互いに増長しながら繰り返されてきたことで、
今日の麻痺状態が形成されたと考えられます。

さて、この社会全体と個人を覆っている麻痺は、
一体、解けることはあるのでしょうか。
人類全体が、便利さや過剰な華やかさ、
物質的豊かさを手放して、
質素でありながら、心豊かな生活に、
シフトすることができるのでしょうか。

私の答えはイエスです。

それは、これは何か新しい能力を獲得しなければならないという、
これまでの人類の技術的発展のように時間のかかることではなく、
これまで身や心にくっつけてきた余計なものを、
ただ手放すだけの話だからです。

麻痺が少しずつ社会に蔓延していったのと同じように、
麻痺の開放も、きっと同じように、
個人と社会との間のフィードバックを繰り返しながら、
社会全体に浸透していくことでしょう。

それは、最初はゆっくりと、
そして、時と共に加速度的に早まっていくはずです。
現時点の段階では、
まだ、目に見える変化は微々たるものですが、
実は、結構多くの人々の心の中で、
もしかしたら本人も気づいていないかもしれないけれど、
明らかな価値観の変化が起り始めていると、
私は感じています。

欧米では10年以上前から、
このような価値観をもつ人々は、
ボランタリーシンプルとして認知されてきました。
しかし、
欧米のように、人は人、自分は自分とはいかない日本では、
実際に、周囲とは価値観の異なる生活をしようとすると、
結構な疎外感を感じることになります。
そのため、日本でボランタリーシンプルを志向する人々の多くは、
そういった生き方が、もう少し社会全体に認められるまで、
理想は理想として、その想いは心の中に留め、
自分の真意とは多少違っても、
物質主義の社会と上手く釣合をとりながら、
暮らすことになります。
従って、日本では、
欧米のような明確なボランタリーシンプル層は、
まだ現れていないと考えられます。

しかし、そういった“隠れボランタリーシンプル”は、
実は、社会の中に結構多く存在し、
着実に増えていっているはずです。

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