イカの哲学  ~ 中沢新一+波多野一郎

本屋さんで始めて“イカの哲学”の本を見たときは、
面白い書名だなと思っただけで、そのまま通り過ぎようとしました。
しかし、著者を見ると、
共著者の一人が私の好きな中沢新一氏であったことから、
その本を手にとることとなりました。

イカの哲学 (集英社新書 0430)
中沢 新一,波多野 一郎
集英社

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中沢新一氏の研究や考え方の特徴として、
実相の世界と現実の世界とが、
連続性をもって存在していることが思想の根本にあります。
多分、そういった点が、
私が中沢氏の書籍に親近感をもつ由縁だと思います。

“イカの哲学”のもう一人の著者である波多野一郎氏は、
誰もが御世話になったことのある、肌着のグンゼの御曹司であり、
神風特攻隊の隊員やシベリア抑留といった、
人間の極限状態を体験した後、
スタンフォード大学の哲学科大学院に留学した、
奇特な経歴の人物です。

さて、“イカの哲学”とは何なのか。
それは、波多野氏がスタンフォード大に留学中に、
モントレーの魚市場で大量のイカの水揚げと加工のアルバイトをしていた時に悟ったものでした。

彼は、次から次へとベルとコンベアーで運ばれていく大量のイカを見ているうちに、ふと、そのイカの気持ちになったのでした。

それは、私たち人間と同じ、
生あるものとしての実存でした。
いかに小さな生であっても、
その存在を認め尊重することが大事であり、
またそれは、単に言葉での理解では無く、
私たちが天賦の才として持つ「直感」による必要があるというのです。
私たち人類は、概してそれを忘れがちになります。
戦争や争いの本質は、まさにそこにあるということを、
波多野氏は“イカの哲学”としてまとめたのでした。

その上で中沢氏は、波多野氏の“イカの哲学”を、
さらに発展させていきます。

元来、私たちの祖先は、
直感的に他の生命の実存を感じていたために、
狩猟においても、暮らしに必要なだけしかとらず、
しかも、自然界の神への感謝を忘れることなく、
日々の生活を送っていました。

しかしながら、歴史を下るにつれて、
人間の他の動植物の命に対する尊重は薄れていきました。
生き物の狩猟は、それはお金の対象であるか、
或いは、単なる蛋白源としての位置づけでしかなくなりました。
網で一網打尽にされ、ベルトコンベアーで運ばれるイカに、
今や誰もそこで命の尊重を感じてはいません。

戦争をする人類が、戦う相手の命を尊重していない点において、
人間がイカに対する行為と人間同士が戦争する行為とは、
その根本的な原理は同一です。
イカを大量殺戮と広島や長崎で起った悲劇とは、
まさに、根を同じにしているのです。

その点で、日本国憲法の第九条は、
その根のところから人類の誤謬を断絶するよう求めている点で、
欠くべからざるものであると中沢氏は主張します。

“イカの哲学”の根本思想である他の生命の尊重こそは、
エコロジーの原点であると同時に平和の原点であり、
その点において“イカの哲学”は、
これからの社会において、
非常に意味のある思想であるはずだと、
中沢新一氏は本を締めくくっています。

奇しくも、“イカの哲学”は、
今話題のクロマグロの乱獲についても当てはまります。
そこに、命の尊重などは殆ど無く、
クロマグロ漁の制限に反対するのは、
単に「おいしいものが食べられなくなるから」といった、
人間の欲でしかありません。
もう少し、他の生命の尊重を大事に考える人が多数派であれば、
こういった問題は、すぐに決着がつくことでしょう。

私たち消費者も、そろそろ動植物の命に対して、もう少し敏感になるべきだと思います。
決して、敬虔な仏教徒のように、全く他の生き物の命を奪わない食生活を薦めるわけではありませんが、足るを知り、必要ものを必要なだけ、そして、その命と自然界対しての感謝を込めていただくことが必要だと思います。

こういったことが、家庭や学校で教えられ、
日常に生かされていくことも重要です。
環境教育においても、これは最も原点に位置することでしょう。
この原点を抜きにした環境教育は、
私としては、エセと言っても過言ではないと考えます。

それには、私たち大人がまず、
他の生命を尊重する生き方を実践しなければなりません。
そして、それを子供たちに教え、次世代に伝えていかなくてはなりません。

そういった極めて重要な義務が、実は私たち大人には課されているのです。

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