なぜかいつもより早く目が覚めた、
空はまだ薄暗い早朝のことでした。
寝床の中でまだぼんやりしていた私の脳裏に、
突然、もし私たちが使っているお金が紙くずになったらどうなるか?
という言葉が浮かび上がってきました。
さわやかな目覚めのはずなのに、
何ともただならぬお題でした。
丁度、ユーロ問題でギリシャが困難に直面している、
というニュースが話題になっていた時期だったので、
たぶんそのイメージが夢の延長の形で、
問いに変わって出てきたのでしょう。
お金が紙くずになってしまうと、
経済は大混乱に陥り、生産やサービスが止まり、
食や燃料の供給はなくなり、
世界中が困窮してしまうのでしょうか。
すぐに私の脳裏には、
誰かがイメージを流し込んでくれているかのように、
その後に起こるかもしれない、
いろいろなことが次々に展開していきました。
そのことを書く前に、
お金のことについて、少し整理をしておいた方が良いかもしれません。
もともと人類は、
私たちの家族が、家庭の中ではお金を使わないのと同様に、
持てる人が、必要としている人にあげるといった、
純粋に"譲ってあげる”ことで、
暮らしが成り立っていたと考えられます。
それは、今日においても、
家族や親戚などごく近い関係の人々の間や、
現代文明との接触の少ない集落において、
ごく自然に行われていることです。
多分、大昔は、お互いによく知らない集落同士であっても、
厳しい大自然の中で暮らす同じ仲間として、
物々交換ではなく、
相手が必要ならば譲ってあげていたのではないかと私は推測します。
しかし、人類が個々の自我に目覚めていくに従って、
所有や権利、自分、自分達、自分と他人、
といった概念も芽生えていき、
欠乏への不安や、得か損かといった思考が働き出したために、
人はものをあげる際に見返りを求めるようになっていきました。
そのため、次第に無償で贈与するということは少なくなっていき、
物を交換するには、その対価となる物を必要とする、
物々交換が前提となっていったと考えられます。
物々交換とは不便なもので、
自分が欲しいものを持っている相手が、
こちらが譲りたいと思っているものを欲しがり、
かつ、それが相手にとって十分な量が無いと交換は成立しません。
そこで人類が発明したのが貨幣でした。
貨幣は、交換の時間的、空間的、対象の自由度を、
格段に広げることを可能にした一種の記号のようなものです。
貨幣が使われ出して暫くの間は、
貨幣が暮らしの中に占める割合が少なかったので、
貨幣の本来の目的が功をなし、
暮らしや社会にとってプラスに働いたと考えられます。
しかし、時がたち、
産業革命がおこり、
様々な面で分業化が起こり、
お金の役割は格段に大きくなりました。
また、生活の基本を支えていた地域コミュニティーが崩壊していき、
人々は、物やサービスをお金で買うことで、
暮らしていくことが一般的となりました。
そして今や、
ほんのわずかな一部の例外を除いて、
生きていくためには必ずお金が必要であり、
水でさえ、お金を払わなければ飲めない世界となってしまいました。
現代人にとって、
労働はお金を得るためであり、
労働はお金に換算されるべきものと考えることがあたりまえです。
労働の対価は市場価値で決まることもあれば、
お金を握る者が、その影響力を振りかざし、
労働の対価を勝手に決めることも多々あります。
しかし、労働というものの本質を考えるならば、
本来、労働はお金に換算されるべきものではないことは明らかです。
生活共同体のようなところで生活したことのある方や、
主婦のように無償の労働を経験したことがある方ならば、
このことは、よく分って頂けると思います。
労働というものの本質は、
共に暮らす他者に対する奉仕であり、愛の表現です。
愛をお金には換えられません。
現代社会において、
労働を強引に数字に置き換え、お金に換算している点こそ、
実は、私たちの社会のシステムにおける、
最も大きな誤謬の一つと言っても過言ではありません。
この矛盾は、世界中で地域通貨がブームになった時にも、
いたるところで議論の的になりました。
しかし、地域通貨が労働を数字に置き換える通貨である限り、決して解決するものではありません。
それは、ベーシックインカムでも解決しません。
タイムダラーでも本質的には解決しません。
通貨自身がもつ矛盾。
人類がこの矛盾から解放される唯一の方法は、
お金が紙くずになること、
つまり、人類がお金を手放すことに他なりません。
前置きが長くなってしまいましたが、
もし、お金が紙くずになった時、
私たちの社会はどのようになってしまうのでしょうか。
もしその時の為政者が、
物事の本質をとらえ、
その後に起こる出来事を予見できる人であったら、
多分、私たちはスムーズに新たな社会に転換していくことができるでしょう。
為政者はまず、
戸惑う国民に対して、
お金の出し入れは無いけれども、
今までどおり働き、仕事をすることをお願いします。
次に為政者は、簡単な「所有」に関するルールを定めます。
「これまで皆さんが「所有」していると考えていたものは、
これからは、あなたに「管理を任されているもの」と考えてください。
あなたに「管理を任されているもの」に対しては、
それを環境や美観、安全といった様々な面において、
それらを適切に管理する義務があります。
もし、管理しきれないと考えるなら、
それを管理できる人に譲るか、国や地方自治体に移管してください。
また、法律で、モノや土地の、無駄な入手や、
他人が困るような過剰な確保は禁止します。
国は資源、資産の社会全体への適切な配分を最優先していきたいと思います。」
世の中には、広大な土地や建物、金銀財宝を蓄えている人がいますが、
今までなら、その管理はお金で解決できました。
しかし、お金を使わなくなった社会では、
自分で管理するか、誰かにお願いする必要があります。
でも、お願いしたからといって、
誰もが簡単にその仕事を引き受けてくれるわけではありません。
その仕事に価値があるのかどうか、
頼む側の人に信頼があるかどうかなど、
仕事を引き受けるかどうかは、相手の判断に委ねられます。
つまり、お金を使わなくなった社会では、
膨大な財産を持つということは、それに相当する管理の負担と責任を、
自らに強いることになるわけですので、
財産を持つことが必ずしも良いことではなくなり、
自分が責任もって管理できる範囲で、
必要なものを必要なだけといった暮らし方が、
最もふさわしい生活のスタイルとして定着してくるようになるはずです。
これまで多くの人々は、お金のために働いてきました。
会社も売上げをあげるために非常な努力をしてきました。
しかし、お金を使わない社会になると、
お金のために働かなければならないことは一切なくなります。
従って、人々や会社は、
本当に人の役に立つ仕事や、
社会全体に貢献する仕事を自由に選ぶことができます。
たとえば、これまでお金儲けのために、
単なる薬を混ぜ合わせただけの健康食品を売って、
暴利をむさぼっていた会社も、
まず、そのカラクリを知っている従業員が離れていき、
仕入れ業者も原料を卸さなくなっていきます。
そのような、お金儲けだけに存在していた会社や仕事は、
世の中からすぐに消えていきます。
その反面、人々は値段を気にすることなく、
安全で、質の高いものを求めることができるようになります。
生産者側も、コストを気にすることなく、
良いものを作ることに専念できることから、
世の中から粗悪品は少なくなり、
環境に負担を与えず、品質が良く、
人々のニーズに合った本当に良いものだけが、
次第に世の中の流通の多くを占めていくようになっていきます。
これまで資金不足で十分な活動ができなかった、
環境や福祉、介護、教育などの活動も、
これからは、資金のことは気にすることなく、
人々が必要だと思うならば、
どんどん進めていくことができます。
お金が重要な役割を果たしていた社会では、
お金を握っている人や会社が、圧倒的に影響力を持っています。
会社においては、
そこの社長が従業員の給料の決定権を持っていることで、
その会社のトップとして君臨できている場合が多くあります。
これは資本主義国家だけでなく、
北朝鮮のように、一国が一つの会社のようになっている社会主義国家でも同様です。
しかし、お金を使わなくなった社会においては、
この人間関係が大きく転換します。
物事を進める力はお金ではなく、
その目的の意義と、それに携わる人の人望と信頼によるようになります。
これまで、お金を握って、その影響力に頼っていた人や会社は、
真っ先に影響力を失い、
意義のある活動と信頼される人物によって取って代わられることになります。
モノやサービスを売る側と買う側の立場も激変します。
これまではお金を握っている買う側(顧客)が、
比較的強い立場にありました。
しかし、お金が無くなった時点で、
双方は「譲る側(売り手)」「譲られる側(買い手)」として、
完全に対等な立場となります。
「譲る側(売り手)」にも、相手が譲るべき人でないと判断すれば、
譲らなくても良い権利があります。
従って、お金さえあれば、いくらでも浪費できた過去と違って、
譲られる側(買い手)に信用と適切な理由がなければ、
欲しいものは手に入りません。
そのため、誰かがモノを大量に独り占めしたり、浪費したりすることは、
今以上に少なくなると思われます。
日用品や食料の場合は、
それは人にとって生きていく上で必要なものであるので、
知らない相手であっても、
ある程度その人を信頼して譲ることになるでしょう。
それが、家を建てるとか、自動車を買うとか、
会社で大量の原材料を買うとかとなると、
譲る側、譲られる側の双方の、お互いの理解と信頼関係が必要となります。
そうした信頼関係が築かれたのちに、
大きな取引はなされるようになるでしょう。
今、東京では、まだ使えるビルが取り壊され、
次々に巨大な高層ビルに建て替えられています。
自己の利益を上げるために、デベロッパーが行っているためです。
もし、お金を使わない社会になれば、
そのように利益を目的とした事業は停止されることでしょう。
多くのお金目的の事業や生産活動が、同じように停止されるでしょう。
それでは経済が停滞し、失業者が増えるのではと、
心配されるかもしれませんが、
心配はご無用。
世の中に必要な仕事は続けられ、
暮らしに本当に必要な物資は生産され、流通することから、
失業しても、生活のために必要なものは手に入り、
食べていけます。
従来の「経済」といった考え方はすでに必要はありません。
従来の経済学部は解体するでしょう。
そこ先生方は失業するかもしれませんが、
これも心配はご無用。
ちゃんと暮らしていけるのですから。
人々の人生やライフスタイルも大きく転換します。
人々は、社会に必要とされ、自分がやりたいと思う仕事を探し、
その方向に人生と暮らしを切り替えていきます。
仕事をしないというのも一つの選択です。
しかし、周囲の人が社会のために働いている傍らで、
働けるのに、理由も無く何もしない生活は、
人間の本性からして、強い疎外感を感じる極めて苦痛な状態です。
従って、働かずに楽だけして暮らそうという人は、
少しはいるかも知れませんが、極めて少数派となるはずです。
今は3Kとして嫌われる仕事であっても、
それが社会に貢献する仕事と認識されれば、
喜んでその仕事を選ぶ人も増えることでしょう。
お金を稼ぐためだけに、もはや東京に住む必要はありません。
自然と隣り合った暮らしや、
自分の可能性を自ら高めていける仕事を目指して、
サラリーマンから、農林水産業、職人などに転職する人が、
急速に増えていくことでしょう。
地方に移り住む人が多くなり、
現在、過大な人口を抱える東京は俄かに縮小を始め、
過疎と化していた地方は、
再び若い人が増え活気を帯びてくるでしょう。
インターネットなどを通じて、見ず知らずの遠くの人の役に立ち、
人のために働く喜びを感じることはありますが、
喜んでくれる人の気持ちを直接的に肌で感じることができるのは、
やはり日常的に顔を会わす機会の多い、
地域の中での活動の場合でしょう。
次第に地域コミュニティーでの活動が増えていき、
生活共同体的な地域コミュニティーが、
各地に多く出現してくることでしょう。
尚、もし、日本だけが先行して、
お金を必要としない社会に転換した場合、
資源を海外に依存する日本は、
何らかの手立てを講じる必要があります。
多分その時には、輸出による入金と輸入による出金を、
国が一元化して管理することになるのではと思います。
さて、私が始めてお金のあり方に、
疑問と関心とを持つきっかけになったのは、
約20年前に読んだ岩井克人氏の「貨幣論」でした。
それ以来、私は、
今の社会の様々な課題を解決するための、
新しい貨幣システムの形を模索してきました。
しかし、そろそろその探求の旅も終わろうとしているのかもしれません。
どのような貨幣システムも、
「質」を「量」に転換するという矛盾を抱えている限り、
理想的なシステムは完成しません。
貨幣システムが内包する問題は、貨幣システムでは解決できないのです。
人類は、かつて弓矢という一大発明をし、
それに長い間頼って生きてきました。
そして、人類が進歩した結果、
弓矢は私たちの生活から必要なくなり、
人類の多くはそれらを手放すこととなりました。
それと同じように、
人類は、貨幣によって、
一大物質文明を築きあげることに成功しました。
そして、
人類が精神面、文化面、社会システムと、
様々な面で成長した結果、
人類が貨幣を必要としなくなる時が、
そろそろ近づいているのは間違いありません。
多分それは、何かの大きな経済変動といった、
外部的な要因で起こるのではなく、
事前に、人々がお互いに,
お金のない社会について、
どのような暮らしになるか、どういったルールが必要かを話し合い、
しっかりと新しい社会のイメージを持ったうえで、
移行することになるでしょう。
その日は、人類にとって記念すべき日となるはずです。
不思議なことに、
人々が貨幣を手放し、社会性に目覚めた個々が活動していくようになると、
これまで述べてきた社会は、
だれかが計画を立て、卓越したリーダーが推進する必要も無く、
ごく自然に、あらゆる全てが自己組織化されていくでしょう。
これは、大自然を形成している仕組み(エコロジー)と同じです。
社会システムが、自然界のシステムと継ぎ目なくつながるのです。
これこそ本当のエコロジカル社会の実現です。
特に日本においては、
もう、やろうと思えば、実行可能なところまで来ている気がします。
東日本大震災の時に、多くの人が繋がり、
支援に、節電に進んで協力した姿は、
これから日本が新たな段階に入っても大丈夫なことを示してくれた気がします。
必要なのは、人を信頼できないことからくる、
不安をいかに取り除くかです。
すでに目の前に、
手を伸ばせば届くところに新しい社会はあるのですが、
多くの人が貨幣システムに手足を縛られているがために、
まさに、私たちはお預けの状態にあるかのようです。
私たちの本質が善であり、愛である限り、
間違いなく、人類が貨幣を手放す時が来るはずです。
そのときに現れ出る新しい社会は、
人類誕生の時から神様が用意してくれていた、
とっておきのギフト(贈り物)だと、私には思えてなりません。
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