始まっている未来 ~ 新しい経済学は可能か 宇沢弘文・内橋克人

岩波書店



世界的に高く評価されている経済学者の一人である宇沢弘文さんが、
「始まっている未来」という内橋克人さんとの対談本の中で、
新自由主義は「経済学とはいえない一種の信念」と評しておられます。

フリードリッヒ・ハイエク、
ミルトン・フリードマン、ラリー・サマーズ、
日本で言えば浜田 宏一氏や竹中平蔵氏らが、
新自由主義の代表的な経済学者と言われています。

ミルトン・フリードマンと同じ時期にシカゴ大学におられた宇沢先生は、
フリードマンの発言に憤慨することが多かったとのことです。

「資本主義の世界では儲けを得る機会に儲けるのが紳士の定義だ。儲ける機会があるのに儲けようとしないのは紳士とはいえない。」

「麻薬をやる人は、麻薬をやったときの快楽と、麻薬中毒になったときの苦しみとを比較して、麻薬をやったときの快楽のほうが大きいと自ら合理的な判断をして麻薬をやっているのだ。決して麻薬を規制して、個人の選択の自由を制限してはいけない。」

「黒人は子供のときに、遊ぶか勉強するかの選択において遊ぶことを選んだ。だから上の学校に行けないし、技能も低く、報酬も少ない。不況になれば最初にクビになる。それは、子供のときに遊ぶことを合理的に選んだのだから経済学者としてとやかく言うことではない。」

正常な市民感覚としては、信じられないフリードマンの発言。
とにかく、こういった考え方が原点にあるのが新自由主義です。
でも何故このようなとんでもない論理展開になるのでしょうか?

宇沢先生は新自由主義を、
「人間の一人一人の能力が最大限に発揮され、様々な生産要素が効率的に利用できるという条件下で、全ての資源、生産要素を私有化し、全てのものを市場を通じて取引すること。」
と定義されています。

私が思うに、
ポイントは、「人間の一人一人の能力が最大限に発揮され、様々な生産要素が効率的に利用できるという条件下で」というところ。

私たちの社会は自然界の生態系と同じく、
お互いがお互いの制約となることは避けることはできず、
そのような条件が揃う事は決してありえません。
新自由主義が完全におかしいところは、
現実にはありえない前提を、ありえることとして認め、
その上で議論を進めていることです。
つまり、議論を始める前に、
既に“現実”からの大きな飛躍が存在するのです。

私には、一種のトリックとしか思えません。
物理で言えば、開放系かつ複雑系である空気の動きを、
閉鎖系の理想気体で理解しようとしているようなものです。
別の表現をすれば、
量子論を、ニュートン力学で解けると考えているようなものでしょう。

先のフリードマンの麻薬や黒人の発言も、
現実的ではない状態を前提として論理を展開しており、
それに気づかない人たちが、
何となく納得させられてしまっているのが怖いところです。
危うい新興宗教や健康食品、エステと似ています。
宇沢先生が、新自由主義のことを“信念”と表現されているのは、
こういうところに理由があるのだと思います。

ミルトン・フリードマンの考えは、
レーガン大統領、ブッシュ親子、そして、
先にあげたラリー・サマーズ、ティモシー・ガイトナーへと受け継がれているとのこと。

イギリスでは新自由主義の元祖の一人であるハイエクに傾倒していた、
故サッチャー元首相も同じです。
私は、サッチャーが首相を勤めた前と後とにイギリスを訪れましたが、
サッチャー後のイギリスが、明らかにすさんだことは間違いありません。
経済系の新聞などでは英国病を立て直した人と喧伝されていますが、
あくまでそれは一面的な話で、
実際には大量の失業者を生み、医療は崩壊し、
総合的に庶民の暮らしの質は劣化しました。
IRAの爆弾テロは頻発し、フォークランド紛争も引き起こされました。
彼らが勝手に考える「正義」のためなら、
人の命やささやかな幸せでさえ犠牲にすることを、
まさに実行した人でした。

新自由主義が前提とする完全な公平性が、
決して実現できない現実世界において、
極端な規制緩和と自由化とを行うならば、
結局、不均衡な経済、不均衡な社会が出来上がり、
自律的な回復力をも失ってしまいます。
つまり、行き着く先は破綻することを意味します。

新自由主義に対峙して、
宇沢先生が提言されるのは、
簡単に言えば「守るべきものはきちんと守る」こと。

例えば、自然環境、農業、社会インフラ、
そして制度資本(教育、医療、金融、司法、行政、出版)などの、
基本的に市場競争にそぐわない分野については、
社会共通資本として社会全体で守っていき、
その管理には、職業的な知見と高い倫理観を持った人が携わる必要があるとのことです。

宇沢先生は、特に日本の農業については、
それを経営的、組織的に運営することは難しいことから、
社会的共通資本として守っていくべき重要なものと位置づけられています。

そういった「守るべきものは守る」考え方の経済学者として、
宇沢先生は、“sanity”= “人間らしい気持ち”、を持った経済学者、
という表現をしながら、神野直彦さん、金子勝さんを高く評価されています。

私もそれに全く同感です。

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